初音ミク総研

初級者のための解説や曲・DVDの紹介他。視聴専門だよ。

プリガーになくて初音ミクにあるもの

ダイヤモンドオンラインの記事でこんなのがあった。

zasshi.news.yahoo.co.jp

 

ざっくりと要約すると、

トヨタプリウスの拡販に萌えキャラ(擬人化)を使ったが、盛り上がってない。

・このプロジェクトの企画者は萌えビジネスがわかってない

という記事。

実はブログ主も、こんな取り組みがあることを、この記事を読むまで知らなかった。

toyota.jp

ミク曲も数多く手がけているOSTER Projectが楽曲を提供しているのに、

ミク好きのブログ主さえそのことを知らなかったくらい周知されていないから、

失敗といえば失敗なのかもしれない。

 

でも、この記事の論調に、どうにもひっかかるものがあった。

記事の筆者に言わせると、「萌えビジネス」には成功するセオリーがあり、

初音ミクガルパン、艦隊コレクションはそのセオリーにのっとっているが、

プリガーはそうはなっておらず、研究不足で失敗したことになっている。

 

そうかなあ?

プリガーが失敗しているのか成功しているのかはさておき、

初音ミクは、萌えビジネスのセオリーにのっとったから成功したのだろうか?

 

結局、「萌えビジネス」で成功するためには、ターゲットの分析などのインプット、需要を的確に捉えて形にするアウトプット、両面において多角的な努力が必要だということだ

 

と記事に書かれている。

もちろん、クリプトンフューチャーは、努力しただろう。

でも、ターゲットの分析が正確だったり、需要を的確に捉えて形にしたから、

初音ミクが成功したとは、ブログ主は考えてない。

そんなマーケティング的なアプローチではなく、

クリプトン社が作りたいものを全力で作り、

それが運良く受け入れられ、育ててもらった、ということではないのだろうか。

開発者たちのインタビュー記事を読んでいると、そう思えてくる。

少なくとも、「需要を捉えて」初音ミクを作ったとは思えない。

「ネギを振り回すDX−7少女の音声合成技術」なんて需要、あるわけがないw

初音ミクは、計算で作れるような存在ではない、

奇跡と偶然の産物だとブログ主は考えている。

初音ミク以降のボカロキャラは、そこそこ計算して生み出したかも知れないが)

 

そもそも「萌えビジネスで成功するためには」という上から目線の発言が片腹痛い。

「じゃあ、お前がやれよ」と。

試行錯誤して頑張っている人に、結果論でダメ出しできるほど、この著者は偉いのか。

 

そもそも、初音ミクガルパンや艦コレと一緒に並べて「萌えビジネス」と一括りにしているところからして、この著者はボカロや初音ミクがわかってないと思うんだが。

 

トヨタは昔から、CMで初音ミクをうまく取り入れてきた。

www.youtube.com

www.youtube.com

 

トヨタがボカロの社会的地位を向上させた貢献度は、少なくないと思う。

 

今回のプリガーは、ひょっとしたら失敗だったかもしれないが、

サイトを見れば一目瞭然、相当気合を入れて取り組んでいる。

こういうパトロンは大事にすべきではないのだろうか。

それを「素人が萌えビジネスを安易に利用している」などと斬って捨てることは、

ブログ主としては賛同できない。

 

トヨタは、これからも、この手の取り組みにチャレンジしてほしい。

「需要が」「分析が」などと小難しいことを考えずに、

「これ、やりたい!」「これ、いいと思う!」ということに、

思い切って取り組んでほしい。

そうすればいつか、すごいものが生まれるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初音ミクを研究した文献要約《ユリイカ編 Vol.3》

印象論に過ぎないが、たいていのニコニコ動画上の楽曲は、iPodを通して聴くと約8割「劣化」してしまうのだ。つまりニコニコ動画上でコメント付きでその楽曲を視聴するほうが、圧倒的に「神曲」に聞こえてしまうのである。

 

濱野智史(情報環境研究)

 

 

初音ミクのブームが「声」によって駆動されたとはあまり思わないんですが。むしろKEIのパッケージイラストの効果や(中略)ニコニコ動画との親和性が大きかったのではないか。

 

東浩紀(哲学)

 

 

初音ミクは音楽的にも図象的にも日本文化のある種の鏡というかシュミラークル的な《場》としてあって、そういう逃げ水を追いかけるようなことが初音ミクについて語ることなのかなという気がしてきました。

 

編集部

 

21世紀の今日、「初音ミク」という名の存在しないはずの少女を共有する人々は、実のところ「目に見えぬ女の子との遊戯を通して、想像力が《別の現実》、物理的な現在とは異なった現実に達しようとする力」であることを発見し、それを獲得するためのレッスンを日々積んでいるのではあるまいか?

 

中森明夫(アイドル評論家)

 

 

http://ecx.images-amazon.com/images/I/41V30DGZxvL.jpg

マジカルミライのスクリーンは小さい方がいいような希ガス

マジカルミライ2016の開催が発表された。

今年の会場は幕張メッセ国際展示場。

またデカイ箱を抑えたな。

 

ブログ主はライブに行ったことがないからわからないんだけど、

会場が大きくなっていくって、どうなんだろかね。

ミクさんを遠くから小さくしか見れない観客が増えるってことじゃない。

「それでもいいからその場にいたい」とフアンが納得してるなら別にいいけど。

 

経営的な観点からは、会場が巨大化していくことは理解出来る。

1回の公演で収容人数を増やした方が、そら儲かるさ。

でもそれだと、前の方の席はいいけど、後ろの方の席は見えるのかな。

心情的には、大きい箱で1回やるより、

小さめの箱で2回やってくれるほうが、フアンの満足度は高まると思うんだけど。

 

あと、マジカルミライで使われる巨大横長スクリーン。

あれもどうなんだろうね。

「MIKU EXSPO」とか「ミクの日感謝祭」でつかっていた、

少し小さめのスクリーンの方が、ブログ主は好きだ。

あれで十分だと思うし、バックバンドとの距離感もいい感じでとれる。

 

巨大横長スクリーンは、なんか、いまいち使いこなせてない感じがする。

バックバンドとの距離も離れるし、

ほとんどの時間、無駄なスペースになってる。

ミクが走り回る演出の曲もあるけれど、その多くは、

「ミクが走りたいから巨大スクリーンを用意した」というよりは、

「せっかく巨大スクリーンを用意したのだから、ミクを走らせた」感がある。

唯一、巨大スクリーンをうまく使ってると思うのは、Shake it!だけかな。

 

www.youtube.com

 

糸井重里が何かの雑誌で言っていたんだけど、

テレビ放送が白黒からカラーに移行した時、

どの番組でも、無駄に、画面上に花を映り込ませていたんだって。

ニュース番組でもクイズ番組でも、

意味もなく花を飾っておく。

なぜそんなことをしたのかというと、

「せっかくカラーになったんだから、鮮やかな花を飾ろう」

ということだったらしい。

糸井重里曰く

「それって逆に(発想が)貧しいよね」

 

マジカルミライの大会場や横長スクリーンを見るたびに、

「俺たちはこんなでかい会場を満席にできるんだぜ!」

「こんな巨大スクリーンで初音ミクが見れるんだぜ!」

という、制作サイドの鼻息が感じられてしまう。

でも、なんだかそれって「貧しい」と感じてしまうのは、

ブログ主だけだろうか。

 

これからも大会場のライブにいくことはないと思う。

でも、ジャズバーとかで、こじんまりと少人数ライブをやるなら、絶対に行く。

都内で常時営業するなら、週1で通ってもいい。

 

クリプトン、やってくれないかなあ。

 

 

「東京五輪開会式で初音ミクは歌うべきでない」と考える2つの理由

ロンドン五輪が開催される少し前に、

開会セレモニーのオープニング歌手を(勝手に)選ぶ投票で、

初音ミクが暫定首位になったことは、

ミクフアンを大いに勇気付けた。

www.j-cast.com

 

特に痛快だったのは、この票の多くが、

日本人ではなく、海外のフアンによるものだったということ。

この投票で選ばれたとしても、実際のオープニング歌手になれるわけではない。

だが、海外にもミクフアンが少なからず存在し、

半ば冗談とはいえ、世界的イベントの歌い手として熱烈に投票してくれたことは、

日本のフアンにとって、勇気付けられる話だった。

 

当時は「さすがにロンドン五輪は英国人歌手でしょ」という意見もあったが、

そうなると「東京五輪は日本だからいいんじゃね?」という論法になる。

こうして「初音ミク東京五輪歌手待望論」がでてくるわけだ。

 

ちょっと前に、こんな記事が出た。

www.excite.co.jp

記事を一言で要約すると、東京五輪のオープニング歌手として、

「8割以上が、初音ミクはふさわしくない」

と考えているというアンケート結果だ。

ちなみに賛成は15%弱である。

 

賛成は、反対派のコメントも列挙してあるが、だいたい、想像通りだ。

ざっくり言うと、

 

【賛成】

・世界的に知名度があり、有名。

・日本の技術や、クールジャパン(文化)の象徴。

 

【反対】

・恥かしい。

・スポーツ(人)の祭典に、人以外が歌うことはふさわしくない。

 

こんなところか。

 

さて、ブログ主の意見はというと、

初音ミク東京五輪の開会式で歌うことには、反対である。

それは、スポーツの祭典がどうとか、はずかしいとか、

そういう理由からではない。

 

理由その1。

初音ミク東京五輪の開会式で歌うメリットより、デメリットが大きいから。

デメリットとは何か。

端的に言うと、「反発」だ。

 

先に引用したロンドン五輪の記事からは、

K−POPグループが上位にランクインし、炎上していたことがわかる。

ようは、多くの人が「まあいいんじゃない?」と納得できる歌手ではなかったのだ。

万人の一致を得ることは難しいにしても、

そこそこ納得できる歌手を選ばないと、むしろ逆風の方が強くなる。

そんな逆風の中に、我々は初音ミクを立たせたいのか。

 

オープニング歌手として登場し、

これまで初音ミクをあまり知らなかった人がフアンになる、ということもあるだろう。

だが、その逆も十分に考えられる。

むしろ、否定的な反応の方が多いであろうことは、

フアンであれば想像できるのではないか。

今まで、初音ミクについて「いい」とも「悪い」とも思わなかった人の多くが、

アンチ初音ミクとなる可能性は否定できない。

そこに目をつむり、「世界的イベントで歌わせることで天下を取らせたい」と思うのは、奇跡の少女を死地に赴かせるのに等しいと考える。

日本の技術やクールジャパンを広めるのは、他の誰かにやってもらえばいい。

そんな「どうでもいい」理由で、初音ミクを危険にさらすことはない。

 

理由その2。

そもそも、五輪で歌うことが、どれほどのステータスなのか。

いや、ブログ主もかつては、そこに一つの夢を見ていた。

 

紅白に出て欲しい。

五輪の開会式で歌って欲しい。

 

数年前はそんなことも思っていた。

だが、なぜそんなことを思っていたのかを考えていくと、

どうも、浅はかな根拠が浮かび上がってきた。

ようは、天下を取りたいのだ。

 

日本では一流の歌手しか紅白に出場できない。

だから初音ミクに紅白に出て欲しい。

五輪は世界が注目するイベントだ、

だから初音ミクに五輪で歌って欲しい。

 

歌手として頂点を極めて欲しい、その姿を見たい。

そんな「てっぺん願望」のようなものが、これらの夢の根底にある。

 

でも、よく考えると、この考え方は非常に「古い」。

「いい大学に入って、一流の会社に入れりなさい」

くらい、古い。

田園調布に住んだら勝ち」

みたいな、ある意味、高度経済成長期の、昭和的価値観だ。

 

初音ミクは21世紀の申し子である。

20世紀の価値観をそこにあてはめるのは、健全なのだろうか。

 

紅白に呼ばれた。

CDが何枚売れた。

ランキングで1位になった。

納税番付に名を連ねた。

五輪のオープニングを飾った。

 

そんな土俵に初音ミクを乗せようとするのは、

20世紀的な価値観でしかミクを推し量れない証拠ではないだろうか。

 

初音ミクはいま、インターネットを通して、世界中に愛されている。

神曲も、下手な曲も、全部歌い、踊り、頑張っている。

歌と音楽を民主化した、電子の歌姫なのだ。

誰かと競うわけでもなく、みんなを幸せにする。

それこそ21世紀が目指すべき姿なのではないだろうか。

そして初音ミクは、すでにそこに到達しているのではないか。

それを今更、「他を制圧しててっぺん取りたい」みたいな、

昭和的価値観に戻り、目指す必要はあるのか。

 

ブログ主は、ない、と考える。

 

 

私が初音ミクを聴き始めたのは、ここ3〜4年の話だ。

それ以前は、「存在」は知っていたが、興味がなかった。

もしその当時に、誰かに無理やり聞かされていたり、

テレビのCMで初音ミクがゴリ押しされていたら、

「なんだかうざいなあ」と思ったことだろう。

 

出会い方は、大事だ。

ご縁があれば、いつか、勝手に出会うものだ。

それまでは、焦らないほうがいい。

 

少なくとも、現状で東京五輪初音ミクを歌わせるような強硬手段は、

フアンにとっても、そうじゃない人にとっても、

初音ミク自身にとっても、幸せな結果にはならないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初音ミクを研究した文献要約《「情報処理 別冊」編 Vol.1》

「人間の歌声でなければ聴く価値がない」という旧来の価値観を打破し、「合成された歌声がメインボーカルの楽曲を積極的に楽しむ文化」が世界で初めて日本に誕生した。

後藤真孝(産業技術総合研究所

 

 

なぜ自分の声が相手(初音ミク)に届かないとわかっていても、それでも、人々は声援を送ったり初音ミクに呼びかけて叫んだりせずにはいられないのか。それは声を出す自己表現手段であると同時に、会場の聴衆間のコミュニケーション手段であるからである。ステージ上の受け手の実在は声援行為に本質的ではなかったことが、こうしたコンサートだと浮き彫りになる。むしろ、他の観客が周囲にいることが本質的なのだろう。 

 後藤真孝(産業技術総合研究所

 

 

初音ミクには、人と人をつなげるハブ(hub)の効果もある。

後藤真孝(産業技術総合研究所

 

 

音楽合成技術がポピュラー音楽制作で不可欠となったのと同様、歌声合成技術もいつの日にか不可欠になる。(中略)特に、喉という物理的な制約のない歌声がどのような表現を生み出していくのかは興味深い。

後藤真孝(産業技術総合研究所

 

 

歌声合成技術が発展すると、人間の歌手はいらなくなるのだろうか。筆者はそうはおもわない。なぜなら、我々人類は歌うことをやめないからである。人は、強制されて歌うわけではなく、歌いたいから歌っている。

後藤真孝(産業技術総合研究所

 

 

過去にさかのぼって考えれが、たとえば、能や歌舞伎にはすでにキャラクタを大切にする文化があり、連歌はN次創作そのものである。ほかにも、人形浄瑠璃との関連性も指摘されている。日本の伝統は生きている。

後藤真孝(産業技術総合研究所

 

 

単に「歌やキャラクタを好む人々のための首位的な世界」だとみなすと、この本質を見誤るこの現象では、日本の技術・社会・文化のすべての強みが結集したと思えるような明るい未来が築かれつつあり、一度そのすごさを知ってしまうと、他の人には伝えずにはいられない気持ちになってしまう。

後藤真孝(産業技術総合研究所

 

 

http://img.fujisan.co.jp/images/products/backnumbers/871252_l.jpg

書評『ユリイカ 2008年12月臨時増刊号 初音ミク ネットに舞い降りた天使』

http://ecx.images-amazon.com/images/I/41V30DGZxvL.jpg

 

ユリイカ初音ミクを特集することに、それほど違和感はない。

ガルシアマルケス鬼束ちひろハルヒもゾンビも、

ユリイカの手にかかれば、高尚な議論の題材となる。

初音ミクは、むしろユリイカ向きの題材だとさえ言えよう。

 

さて中身であるが、アイドル論、音楽論、オタク論、情報論、社会論など、様々な視点から、様々な論客が初音ミクを語り尽くす。

中には、「よく知らない」「あまり好きじゃない」人にまで語らせている記事もある。

Gacktの記事とかさ)

まあ、これも、いつものユリイカだ。

 

とにかく、論文数と、文字数が多い。

結構読むのはしんどい。

オススメの読み方は、著者が誰かは気にせず、まず10行くらい読んでみて、おもしろそうなら読み続ける、面白くなさそうなら他の著者の論文にシフトすること。

全員が面白いことを言ってるわけではないし、

なかには、意味不明の記事(詩?)もある。

初音ミクに言及せず、自分の得意分野のことを語ろうとする輩もいる。

ユリイカの平常運転)

だから、どんどん、飛ばして読むべし。

幸い、論文数は多いから、何本かは「いいね」と思う記事に出会うだろう。

 

小難しい話ばかりではない。

対談調の読みやすいものもあれば、

巻末には「ヒットパレード」と称して、

オススメの選曲リストもあるので、何かと飽きない構成になっている。

値段も1000円ちょっとだし、わりとお得。

 

初音ミクを「考える」本としては、

刺激的な材料満載の1冊と言える。

 

 

 

 

 

 

公式サイトでミクの日プレゼント実施中


今日はミクの日ということで、公式サイトから期間限定の初音ミク特製スマホ用壁紙がDL出来るようになった。

http://blog.piapro.net/2016/03/d1603091.html

早速DLしてみた。

f:id:dragoon46jp:20160309184357j:image

・・・悪くない。
今日1日はこれにする。